2012年03月26日

『播磨の文化・文学の一側面−林田・敬業館にて−』

今回は、姫路に関係するテーマですよ。
先日、本学の特別研究助成金による小冊子『播磨の文化・文学の一側面−林田・敬業館』が刊行されました。私も末席に加えてもらい、駄文を載せていただきました。
播磨の文化・文学の一側面書影.jpg

内容は以下の通り。

盤珪の「不生」と「平常底」 ――播磨の宗教を背景にして――  岡田 勝明
河野鉄兜の中国・九州遊学の道筋について ─―四国・備前・備中―─ 田村 祐之
佐多稲子と播磨 ――姫路・相生・明石、そして西沢隆二――  北川 秋雄
播磨の俳諧                          富田志津子
播州姫路の女性文化史 ──万葉恋歌から幽霊・妖怪伝説まで──  大森 亮尚

宗教・文学・文化と、幅広いジャンルにまたがる内容で、小冊子ながらも他には類のないものだと自負しております(いや、私が企画したわけではないのでおこがましいですが)。
林田というのは、今は姫路市の一部になっていますが、かつては林田藩という独立した藩の所在地でありました。
小藩ながら、民政や教育に力を入れており、寛政六(1794)年には藩校・敬業館を建て、のちに姫路の高名な漢詩人・河野鉄兜を講師に招いています。
この鉄兜という人、非常に豪放磊落な人物であったようで、敬業館講師に就任するにあたり、藩主にある条件を出します。
その条件というのが、「就任前に、中国・九州地方の高名な文人たちと交流したいので、旅行のための休暇をいただきたい」というものでした。
就任前に休暇を申請する、というのも型破りですが、林田藩主・建部政和も大人物らしく、これを承諾して、費用も出してやります。
今だったら、こんなこと申し出たら、「この話はなかったことに」ということになるでしょうねぇ。
ともかく、約一年に及ぶ旅の後、林田に戻った鉄兜は敬業館講師として弟子を育てつつ、各地の文人学者たちとも交流を続けました。
しかし酒好きがたたって、糖尿病を患い、慶応三(1867)年、43歳の若さで亡くなったのでした。

この鉄兜が講師を務めていた敬業館、その講堂が林田に現存しています。数年前から、姫路市がこの敬業館講堂を利用して、年4回の「敬業館講座」を開いており、私も2年ほど、講師を担当させていただきました。最初の年は播磨の藩校について、2年目は上で紹介した河野鉄兜について、話をしました。
今回、『播磨の文化・文学の一側面』に載せていただいた文は、鉄兜が講師就任前に行った中国・九州旅行の道筋について、あれこれ考察したものです。紙幅と時間の関係で、道筋の途中までしか追いかけることができませんでしたが、ご興味のある方は、まだ数冊手元にありますので、コメント欄でお知らせください。

タグ:播磨
posted by TMR at 19:54| Comment(0) | 文書